再開

 しばらく放置していたが、こちらのブログを再開しようと思う。

 

 理由は、文章産出を行わない生活が続きすぎたせいで内言の機能が落ちていることを実感しているためである。心理学というディシプリンから離れたことで認知心理学的な視座からなんでも見てしまう傾向は緩和され、専門性による暴力は以前に比べると行使していないように思うが、文章を消費者として摂取するだけではなかなか知性は活性化しないものである。というわけでつらつらと日常のこと、考えたことを書き留める場としてここを使うこととします。

 

 なおいまいによる漫画『えすぽわーる・ゆりでなる』(1〜4巻)を読んだ。

 婚約を父親により勝手に結ばれた百合好きの令嬢高校生が、結婚までに残された1年間を使って街で行き交った百合カップル(ご令嬢の目にはそう映るのだ)をスケッチブックに書き留めると共に妄想が展開される、というのが大筋。社会的秩序、あるいは性別役割や大人のしがらみに変性させられようとする際の疎外感の表現がいい。作者の感じている閉塞感がダイレクトに伝わってくるような勢いがある。

 絵が大変好み(絵柄丸パクしたい)。こういうジュブナイル向けの少女漫画的な絵柄が本当はいちばん好きなのだ。また漫画的な表現が上手で可愛らしく一コマ一コマ楽しく読める。

 マジョリティが記号化されておりマイノリティの傷つきばかりに焦点があたるが、これもまた作劇上の仕掛けなのかもしれないと思わせてくれるくらいには男性達の描写が示唆的。作者の思想の変遷とともに楽しめそうな作品です。

 

 斎藤環『「自傷的自己愛」の精神分析』を読んだ。

 「自己肯定感が低い」と言う人々の「生きづらさ」を認めつつも、そういう人は実のところ確かな自己愛を秘めているのではないか、ペルソナ=キャラとしての「自己肯定感の低い」自分、「生きる価値のない」自分を攻撃することで本丸の自分を守っているのではないか......そしてそれに気づくことで自己についての省察を深め、また言語により分析することで自分を客観視し生きづらさの緩和につながれば嬉しい、とのこと。

 臨床的には妥当だと思うけど、徹底的に自己を相対化するマゾな内言産出を日常的に行ない続ける人間、つまり対人関係においてすら常に自分の言動の分析に認知リソースが割かれている類の人間にとっては「もうわかっている」ことだし、虚無の解消にもならない。結局のところ精神医学や臨床心理は「気づく」ことで癒される程度の知性の不活性な人間しか支えられないのだろう。そうやってやんわりとクライエントを社会に嵌め込んでいくことを目的とする、社会構造の再生産の維持に寄与する学問であるわけだ。

 

以上。